【パン食堂まほろば】/『蘇民将来』

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【パン食堂まほろば】

🍞【パン食堂まほろば】

上田市国分1775

🍞本日のパンとスープランチ

🍨まほろばオリジナルグラノーラのための小さなパフェ

素敵で立派な和風住宅を利用したお店です。美味しいパンを購入できますし、イートインにて、ランチ・スイーツをいただくことができます。メニューには丁寧な書き込みがあり、勉強にもなります。なんとなく過ごすのもいいのですが、詳細を知識に迎え入れて食すると、手間ひまをかけて調理をしている光景も浮かんできます。更にその先、食材の仕入れ、生産、などにも意識が向かう。「菊芋のピュレ」が美味しかったです。このお店で食べることができるなんて思いもしなかった。フランス料理、特に家庭料理のレシピを研究されているのだろうか。次回に聞いてみよう。色々考えながら、深く、そして、ゆっくり時間を過ごさせていただきました。立派な建物・・・気になりました。「薬医門」からして並の家ではない、と思っていましたので、調べてみました。こちらの建物は「上田のすてき文化賞」に選ばれていました。やっぱりね。立派な建物には見所がたくさんある。伝統工法、年月、建材、技術・・・。この「パン食堂まほろば」さんとして過ごすのなら「空間」に目を向けたい。大きな家は広いがゆえに陰翳がある。そこを楽しみたいと思う。柱の艶、天井の暗さ、差し込む日差し・・・。

そして薬医門の外。この地、上田市国分は北国街道の要衝でした。通りの景色にも想いを馳せたい。

上田市国分

上堀・下堀(国分一丁目・国分)はかつて「堀村」と呼ばれ、集落西側にあたる国道141号線と北国街道に囲まれた地区を「上堀」、集落東側の信濃国分寺や千曲川に近接する地域を「下堀」としていました。現在では両者とも独立した自治会となっています。寛永2年(1625)、国分寺村から上沢村と共に分村したとの記録が残り、北国街道に沿って千曲川の川辺に発展してきましたが、寛保2年(1742)、戌の満水と呼ばれる千曲川の大洪水が起こり、河畔の集落の大部分が流出するなどの甚大な被害を被りました。このうち、高台となる新開坂の上に引っ越した数軒が上堀の起こりであるとの記録があります。下堀公民館隣の堀川神社には御柱祭があり、対岸の小牧山から切り出してくる「山出し」や千曲川を渡河させる「川渡し」など一連の行事が催されます。上堀地区の信濃国分寺郵便局付近には、上田丸子電鉄丸子線(昭和44年4月廃線)の「上堀駅」がありました。下堀地区の千曲川にはコンクリート鉄道橋としては日本で最も長いといわれている「上田ハープ橋(長野新幹線第2千曲川橋梁)」が架かっています。北国街道が集落を貫いていた頃より、交通の要衝であったことが伺えます。

聖武天皇は、天平十三年(741)鎮護国家の御願により、詔をくだし、各国ごとに国分寺を建てるよう命じました。これに基づき信濃国分寺が造られました。国分寺跡は、僧寺・尼寺と並んで発掘され、史跡公園として整備されています。現在のお寺は、その北側の段上にあります。一月七日-八日の八日堂縁日は大勢の人出によりにぎわっています。この八日堂縁日に頒布されるのが蘇民将来符。六角形のこけし型。上田市指定有形民俗文化財に指定されている。八日堂縁日での頒布習俗が「上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗」として国の選択無形民俗文化財に選択されています。

『蘇民将来』

『蘇民将来』

神代の昔、北海におられた牛頭天王武塔天神の庭の梅の木で山鳩が囀ります。「南海の釈迦羅竜宮の姫君は美しく牛頭天王の后に定っている。」そこで天王は南海の方へ出掛けました。途中、日が暮れたので「巨旦将来」という裕福な人に宿を求めましたが、断られ、追い立てられました。天王が困っていると巨旦の下女に主の振る舞いを詫びられ、東方一里の地へ向かうよう言われます。そこへ向かうと松の木から女が現れて更に東へ一里向かうよう言われます。その通り行ってみると「蘇民将来」という貧窮な人の家につきました。そこで天王は宿を求めました。蘇民将来は「貧賤無極で一夜の宿飯になり申すべき物もなく、御座となし申すべき所もない・・・」と答えましたが、天王は重ねて頼み、粟飯をあげ粟柄を座とし一夜を明かしました。明くる日、天王は正体と旅の目的を告げ、昨日の巨旦を亡き者にすると明かします。蘇民将来は「巨旦の嫁は自分の娘であるから、もし巨旦を罰し給うとも我らが娘をば除きくだされ」と話します。天王は「それは安きことぞ、柳の札を作って蘇民将来之子孫也と書いて男は左、女は右に懸けよ、それを標にしよう」・・・『小県郡民譚集』より

信濃国分寺にはいくつかのお話があります。どれも興味深い。

『国分寺恋しや』

小牧山の頂きにある須川池。ある盗賊が信濃国分寺から鐘を盗み出す。小牧山でひと休みしているを鐘がひとりでに鳴り出した。「国分寺恋しや」と・・・。(日本伝説叢書)

『小太婆さん』

六部が諸国を行脚していた。大日堂で一泊しているとケモノがあつまり話し合っている。「まだ国分寺の小太婆さんが来ないから待っていろ」「さあ小太婆さんがきたから始めろ」。六部はこのケモノの小太婆さんの腕を切るも取り逃してしまった。明くる日、六部が信濃国分寺に来て尋ねると、小太婆さんというのは、大変親孝行の男の母であるという。手に怪我をして床についていて出てこないという・・・。(郷土の伝説)

『平将門』

平将門が平貞盛を追ってついに信濃国分寺の辺りで追いつき、千曲川を挟んで合戦しました。貞盛は山中に逃げ込み辛うじて助かりました。「上田市誌」では貞盛が敗走したのは小牧山ではないか、とみています・・・。(将門記)

『国分の横穴』

昔、国分のある畑の土手に深い横穴があったという。竿を通してその深さを測ろうとしたが奥まで届かなかった。この横穴はどこまでも続く無限であるといわれているが、現在、積んだ石垣に隠れており、場所はわからなくなっている・・・。(長野県史)

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