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《序》
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《序》
信濃国分寺は、上田市国分にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来(諸国国分寺の多くは釈迦如来)。本堂の薬師堂には「八日堂」の別称がある。奈良時代に聖武天皇の詔「造塔の寺は、兼ねて国の華なり、必ず好処を択びて、実に長久なるべし」により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる。創建当時の史跡である信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡(合わせて「信濃国分寺跡」)は国の史跡である。
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🥐【パン食堂まほろば】
🥐【パン食堂まほろば】
長野県上田市国分1775
冷たい雨雪が止みました。庭に雪が残ります。「本日のパンとスープランチ」をいただきました。前回の訪問を覚えてくださっていて、とても嬉しい。
🥕新人参のポタージュ
🥔タラとじゃが芋のグラタン
🥬切り干し大根となばなの塩ゆずマリネ
🥖お食事パン2種
🫖ジンジャールイボスティー
🧁チョコとメレンゲのデザート
古民家の食堂。大きな空間です。パンの香りがします。ストーブの暖かさ、調理の音、美味しいものと相まって良い時間。ありがとうございます。
「まほろば」とは「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語です。聖武天皇は思い描いた「まほろば」を平城京に具現化しようとしました。そして仏教の力で日本中が「まほろば」になることを夢見ていました。
ここ「パン食堂まほろば」さんで思慮深く。古民家は歴史に想いを馳せる場所にふさわしい。
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📓『天平の甍』
📓『天平の甍』
井上靖 1957
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奈良時代の一級史料
『唐大和上東征伝』(鑑真の伝記) 779年
記「淡海三船」722〜785
に史実に即しながら鑑真来朝の経緯を主軸に据えた歴史小説です。
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朝廷で第九次遣唐使発遣のことが議せられたのは聖武天皇の天平四年で、その年の八月十七日に、従四位上多治比広成が大使に、従五位下中臣名代が副使に任命され、そのほか大使、副使と共に遣唐使の四官とばれている判官、録事が選出された。判官は秦朝元以下四名、録事も四名である。そして翌九月には近江、丹波、播磨、安芸の四ヶ国に使節が派せられ、それぞれ一携ずつの大船の建造が命じられた
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天平五年、唐士に向かって船出した第九次の遣唐船には、栄叡・普照・戒融・玄朗と四人の留学僧が乗り込んでいた。うち、栄叡と普照は仏法伝戒の師を日本へと招く任が託されている。苦難の末たどり着いた西都長安には、都大路の華やかさには目もくれず、二十年来この地にあってひたすら写経に没頭している「業行」という名の日本僧もいた。「業行」は自分の筆写した膨大な経典を何とかして故国に持ち帰ることを夢みていた。
やがて栄叡と普照は揚州の高僧「鑑真」と巡り会い、渡日応諾の言葉を得て感泣する。一方で「戒融」はこの国にある「何か」を求めて托鉢行脚の旅に出た。真っ先に望郷の思いに胸焼かれた「玄朗」は唐士の女性と結ばれて身を落ち着かせる。「鑑真」の渡日の企ては四度試みて四度挫折し、栄叡は望み遂げざるままに客死する。やがて十年の歳月が流れ、ついに五度め。これも失敗に終わり、鑑真は両目を失明する。この苦難を知った遣唐副使の大伴古麻呂は内密に遣唐使船全四船のうち、第二船に鑑真を乗船できるよう計らった。出発までの短い期間に「普照」は懐かしい面々に出会う。「戒融」「玄朗」である。戒融は思いを伝え日本行きを断念した。玄朗は妻子を連れての日本行きを切望したが、結局港には姿を見せなかった。そして全ての準備が整った。普照は盲目の鑑真に寄り添い第ニ船へ乗り込んだ。「業行」は生涯をかけた経典の山とともに第一船に乗り込んだ。
「普照」と「鑑真」の渡日は実現する。
想うこと
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ここは信濃国。「まほろば」(平城京)の地とは程遠い。歴史に想いを馳せることができたなら「かの地」へ旅することができる。深い思慮は時空を越えるのだ。僕は時空を超えて、ここから、平城京を、さらに唐の都まで旅をすることができる。そして思慮は帰りの船を用意してくれていて、元の暖かい古民家へ戻る。・・・そして唐から甍の鴟尾(しび)が届くのだ。
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天平宝字七年に「戒融」という僧侶が唐から送渤海使船に乗って海を経て帰国した、ということが古い史料に載っている。普照の没年は不明であるが、もしこの時まで生きていたとすれば、普照は六十歳近い年齢である。
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