【味処ふじよし】/『北国街道殺人事件』

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🍚【味処ふじよし】

🍚【味処ふじよし】

長野県上水内郡飯綱町牟礼2726−3

地元の方々で賑わう食堂です。11:30〜13:30(ラストオーダー)。

仕事で二日続けて訪れました。なので、一度に全部食べたのではありませんので。初日に隣の方々がパフェを追加注文していたので、惹かれて翌日はパフェ(金土日限定)。お食事にはコーヒーサービスがありますが、パフェのみでは付きませんのでご注意ください。

🍝ミートソーススパゲッティ

🍦抹茶わらび餅パフェ

☕️コーヒー

こちらは旧街道沿いにあります。北国街道の「牟礼宿」になります。宿場町として約260年、越後国と善光寺平を結ぶ交通の要衝でした。宿場通りは全長600メートル。東西の出入り口は宿場町特有の枡形になっています。

・・・『北国街道』・・・

中山道追分宿から分岐し、高田を経て出雲崎(📌良寛の出生地)に至る街道。幕府直轄の佐渡鉱山の金銀を安全に江戸まで輸送するための往還。江戸幕府は軍事目的でこの街道を開設し、脇往還(五街道以外の主要道路)として重要視していました。

「越後国」海路佐渡・・寺泊・・柏崎・高田・荒井・二本木・松崎・関山・二俣・田切・上原・関川・・・

「信濃国」・・・野尻・柏原(📌小林一茶の出生地)・古間・牟礼

牟礼(📌分岐)より二通りに分かれます。

(北国街道) ・新町・善光寺・丹波島・篠ノ井追分・矢代

(東脇往還)・神代・長沼・福島・川田・松代・雨宮・矢代

・・・下戸倉・上戸倉・坂木・上田・海野・田中・小諸・追分

追分で中山道へ合流。

☕️

想うことがある。小林一茶と良寛は生没年が近い。また、西国を旅しているところ、生活環境、年の離れた年下女性との交流、生み出す芸術性、質素な生き方まで似ている。もしかしたら、どこかで入れ替わっていてもおかしくないのではないか・・・。

良寛と一茶を結ぶ殺人ルートの謎を描いたミステリーがある。

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📙『北国街道殺人事件』

📙『北国街道殺人事件』

内田康夫 1999

野尻湖の学術調査発掘現場から、妙な骨が出てきたという報告が、野尻駐在所にもたらされたのは、三月二十七日の午後二時頃のことである。「どうも、人間の骨みたいだし、そう古いものでもなさそうなんですがね」電話をかけてきたのは野尻湖小学校の徳武という若い教師で、いくぶん薄気味悪そうな声をしていた。

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良寛と一茶を卒論テーマに選んだ田尻風見子と野村良樹は、出雲崎へ調査旅行へと向かう。途中、野尻湖で人骨が発見されたことを喫茶店のマスターから聞いた風見子は、奇妙な繋がりを語る。風見子は野尻湖の人骨の死亡推定年と同じ時期、母親と出雲崎を訪れていた。良寛が晩年を過ごした「五合庵」ですれ違った二人連れのうちの一人がその地で死体で発見された。もう一人の方が犯人かもしれない。二人は「イナンは京都で・・・」と不思議な単語を使い話し合っていた・・・。

野尻湖は信濃町にあるが、信濃町には警察署はなく、四つの派出所が点在するだけである。長野市から信濃町までは三十キロ近い距離があるので、こういう騒ぎが起こると、多少もどかしい感じがする。しかし、夕刻前には、長野県警捜査一課の捜査員も、現場に大挙乗り込んできた。そのメンバーを指揮するのは、かつて「松川ダムバラバラ死体事件」や「戸隠殺人事件」、それに「信濃の国殺人事件」といった難事件を解決して、一躍名を上げた、「信濃のコロンボ」の異名を取る、長野県警捜査一課きっての名探偵・竹村岩男であった。

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信濃のコロンボシリーズ

「北国街道殺人事件」はドラマ化されています。

〈竹村警部〉を下記俳優さんが演じました。

堺正章  フジテレビ 1998

中村梅雀 テレビ東京 2002

寺脇康文 TBS               2016

伊藤淳史 テレビ東京 2021

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「良寛」一七五八年生 一八三一年没

「一茶」一七六三年生 一八二七年没

年表を眺めながら、風見子は次第に、この二人の性格や生活ぶりの類似点に興味を覚えていった。・・・年表を辿っていた風見子が、突然、ギョット視線を停めた。

「これ・・・」言いかけた言葉が喉の奥で詰まってしまった。

「なんだい?どうかしたのかい?」

野村が驚いて、テーブルの向うから、風見子を覗き込んだ。

「この人・・・良寛のお父さん、以南ていう人・・・」

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想うこと

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僕は長野市に住んでいますが、育ったところは違います。遠い西国「淡路島」です。徒歩が移動手段であった時代では、さらにずっと遠いところ。なんとか生きていますよ。このInstagramで僕が何者か、なんてよく聞かれますけど、普通の人「只者」です。・・・古い「バーバリー」のコートをまだ大事に着ている「おじさん」です。・・・ああ、大丈夫。僕は「信濃のコロンボ」ではありませんよ。(入れ替わってみたいけどね。)

良寛は岡山で修行し1791年から旅に出ているという記録があるが、その後の十年はどこでどうしていたのかはよくわかっていない。一茶は1792年に足かけ7年に及ぶ西国俳諧修行に出発している。また、良寛の父親は京都で亡くなるが、相変わらず良寛は放浪を続けている。急遽、京都入りをしているのは一茶である。

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