黒姫童話館・喫茶:時間どろぼう
黒姫童話館 026-255-2250黒姫童話館/喫茶:時間どろぼう
黒姫童話館の施設内にある喫茶室です。この「喫茶:時間どろぼう」は入館料無しで利用できます。「時間どろぼう」とはミヒャエル・エンデの作品『モモ』にちなんだもの。ランチといいながらも実は「ぬすまれた時間」を「モモ」にとりかえしてもらいたくて訪れたのです。窓からの秋の風景、コーヒー、好きな組み合わせです。黒姫童話館には「はてしない物語」「モモ」の作者ミヒャエル・エンデの資料、また、松谷みよ子を中心とした国内外のおなじみの童話作家の人と作品が展示されています。そちらをじっくりみてからのコーヒーでも良いのですが、悲しいことに日常の忙しさで心の余裕がありません。時間が無い中で、のんびり時間を過ごす、というおかしな世界で生きているので、コーヒーだけでも座っていただきたいと感じるもどかしさ。コーヒーってそんな飲み物でしたっけ?いつのまにかエナジードリンクっぽい。
・・・やっぱりおかしいと思うのです。なので僕はここに訪れている。・・・
窓の外には山と木々の影が落ち葉の陽だまりを作っている。コーヒーを両手で包み込み、ひとつの落ち葉に焦点をあててずっとみていると、影がゆっくりと移動して落ち葉を覆っていくのがわかる。物理的には地球の自転の影だけど、時間の動きを見ていることになる。・・・時間をぬすまれている、とエンデは言ったけど、そうなのだろうか、エンデはもっと深い意味を込めているのではないか、と最近僕は考えている。陽だまりを覆う影。このように暗い死の影が生物をずっと追っている。生物は追いつかれるより先に健全な自分の一部分を切り捨て、自己修復しながら走って逃げている。その間に子孫を作り新しいものを生み出す。命のリレーだ。追いつかれる前に次へとバトンを渡す。だから地球上の生物はエントロピーの法則に反しない。自己修復の速さが鈍くなり、バトンを渡して追いつかれた時、それがその生物の寿命なのだ。では、人間は何故、失われた時間を取り戻したいと思うのだろうか。いや、時間を失われたと勘違いをしているだけなのだ。時間の速さは決まっている。我々は時間の速さを目視できる機会を失って、無駄に「無意義」に立ち止まっているだけなのだ。そもそも失った時間など無い。
コーヒーを飲む時くらいは「有意義」な時間にしたい。立ったまま、運転しながら、といったコーヒーの嗜み方はおかしい。コーヒーを一杯いただく間だけでも時間をじっくりと眺めて過ごしたい。「無意義」な時間こそ「時間どろぼう」に盗んでほしい。
ミヒャエル・エンデ 物語の始まり
ミヒャエル・エンデ 物語の始まり
ペーター・ボカリウス著 子安美知子訳 1995
【中古】 ミヒャエル・エンデ 物語の始まり / ペーター ボカリウス, 子安 美知子 / 朝日新聞社 [単行本]【ネコポス発送】 価格:1,130円 |
こちらもおすすめ
エンデの贈り物
堀内美江著 子安美知子監修 1999
【中古】エンデの贈りもの /河出書房新社/堀内美江(単行本) 価格:1,014円 |
【新品】はてしない物語 ミヒャエル・エンデ/作 上田真而子/訳 佐藤真理子/訳 価格:3,146円 |
【新品】モモ 岩波書店 ミヒャエル・エンデ/作 大島かおり/訳 価格:1,870円 |
物語の始まりはいつどこで。
青年エンデは突然悟る。
「時を越え人々に語り継がれる物語、町の広場で公園で、語り部に群がる人々が日常を離れ、異世界に入り込んでしまう物語。人間のあらゆる夢を確かな言葉に捉え込み、誰の内面にもあるファンタジーの世界を描き出したい。」
エンデ文学には詩の一節のように謎めいた場所「虚無」がある。虚無に辿り着く手掛かりは少ない。虚無から帰ってきた人が少ないからだ。物語を生み出したエンデは虚無へ行った事があるのか。エンデの個人史を追っていく事に手掛かりがありそうなのだが、エンデは自身の個人史を断片的に語る以外は、それほど多くも詳細にも公にしていない。エンデ文学を知るには、彼の友人が調べ上げ筆をとったこの書が一番の近道で、この書の中に物語の始まりが見出せる。どこかに。きっと。
先程、僕は「虚無」という言葉を使った。実は何を当てはめても文章が成り立つ。
現実、ファンタジー、ファンタージエン、ユートピア、ディストピア、あの世、常世、蓬莱、桃源郷、竜宮城、・・・おや? 「モモ」は亀に導かれて・・・
けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
コメント