【Banco Ramo 】/【ヨーロッパ退屈日記】

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《序》

アルデンテ(イタリア語: al dente[al’dɛnte])とは、スパゲッティなどのパスタをゆでるとき「歯ごたえが残る」というゆで上がり状態の目安とされる表現。麺が完全にゆで上がらずに麺の中心が髪の毛の細さ程度の芯を残してゆであげることをいう。

芯を残してゆで上げるのは、ゆで水の塩分が麺に完全に入らない分辛くならず、ソースも麺に入りやすくなり美味しさが増すからである・・・。

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☕️【Banco Ramo 】

☕️【Banco Ramo 】

🥬ほうれん草のジェノベーゼ・パスタ

🍺hopdelic IPA

🍷ワイン 色々

🧆美味しいもの 色々

フラリと訪れた時が、お店のアップデートを翌日に控えた夜。美味しいものをフライング気味でいただくこととなりました。ありがたい。軽く一杯のつもりが、夜遅くまでになってしまった。まあここではよくあること。おひとりさまの時間が長かったので、お酒、食材や調理法のことなどを楽しいお喋りと共に教えてもらいました。数え上げると、ここでは足りない。さらに明日からメニューの「パスタ」について、ソースともども教わりました。真似はもちろん、知識を伝えることもできないから、今日は僕が知る知識を書き込んでみようと思う。メインの「パスタ」の「アルデンテ」について。

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🍝【ヨーロッパ退屈日記】

🍝【ヨーロッパ退屈日記】

伊丹十三 1965

1961年、俳優としてヨーロッパに長期滞在した伊丹十三は、語学力と幅広い教養を武器に、当地での見聞を洒脱な文体で綴り始めました。戦後日本に初めて登場した本格的な「エッセイ」でした。心のままのその内容は、パリの美しさを褒める一方で日本の悪口ばかり。「日本はダサいのだ、自分にはわかる。もう汚れてしまった大人たちには手遅れなのだ!」特に「スパゲッティ」への攻撃は凄まじい。

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「第二部 36 スパゲッティの正しい調理法」の項。

日本のスパゲッティは下品であると結論づけている。「ごくひそかに吸い込む音すら、絶対にゆるされないのだ。上品な自分は本物を知っている。そしてスパゲッティの正しい調理法は「アル・デンテ」である。」

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蕎麦感覚でスパゲッティをすする人が多かった時代、この記述は強い衝撃を日本人に与えました。のみならず「正しい調理法」においては、「アル・デンテ」だと紹介されています。「茹で過ぎてフワフワしてる」のはもはや、スパゲッティに非ず。「信州そばよりやや堅いくらい」に茹で、「スパゲッティ一本を前歯で噛んで、スカッと歯ざわりのある感じ」に茹でなくてはならない。出版された1961年(昭和36年)はケチャップで和えたナポリタンを日本人がズルズル食べていた時代のこと。伊丹十三は敗戦には触れませんでしたが、実は人一倍敗戦を意識していたからこそ、よく茹でたスパゲッティをズルズル食べる「ダサさ」を憎んだのかもしれません。ここから日本の「スパゲッティ」が変わり始めます。日本人は「アル・デンテ」にこだわるようになりました。

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🥲「茹で過ぎのスパゲッティはダサい」その憎しみは、昭和から時を超えて平成生まれのエッセイストに移植されます。

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🍝【生まれた時からアルデンテ】

平野紗季子 2014

私は生まれた時からアルデンテなので、茹でた麺をザルに放置してぶよぶよにすると言う手間でもってパスタを殺す所業の理解ができないから、芯のないことが誇りかのように開き直る喫茶店のナポリタンが嫌いだし、それを愛している人たちの団結力やアルデンテに対する反骨心とも出来る限り距離をとって生きていきたいと思っている。

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🥲茹で過ぎのスパゲッティ、憎しみは終わらない?

漫画家でエッセイストのヤマザキマリさんが論争に参加します。

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🍝【パスタぎらい】

ヤマザキマリ 2019

「もうパスタには飽き過きした」と告白するのは昭和42年生まれのヤマザキマリ。「唯一食べたくなるのは、タラコや納豆を使用した和風パスタやナポリタンなのだ。」「茹で過ぎてぶちぶち切れてしまう、お弁当の付け合わせに入っているようなケチャップベトベトの冷めたスパゲッティ」・・・アルデンテは食べたくない。アルデンテは「和食」ではない。私は日本人だから「和食」が好きなのだ。

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🥲いつまで争わなければならないの?

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想うこと

🍝🍷✨🍝🍷✨

😅自称「2,000文字のエッセイスト」、僕も論争に参加。

【御馳走帖】 内田百閒 1946

【舌鼓ところどころ】 吉田健一 1958

【食通知ったかぶり】 丸谷才一 1975

【私の台所】 沢村貞子 1981

【働く女性の急げや急げ料理集】 小林カツ代 1982

【ああ言えばこう食う】 檀ふみ 阿川佐和子 共著 1998

この辺り、全部目を通した。「美味しければいい」「好みの問題」「パスタとスパゲッティは別物」これらは答えではないのです。尽きぬ「アルデンテ論争」です。答えは時代とそこを過ごした時間の質で変わるもの。時には真逆になる。決まってないのです。「時間」に急ぐ理由を求めている時代は、「アルデンテ」を好む。「時間」をゆっくりと見つめ直す時代は「茹で過ぎ」を好む。だって。「アルデンテ」になるかならないかは「時間」の違いですから。キーは「時間」だ。伊丹十三の時代はスピード世界の幕開けだった。時代は「アルデンテ」だった。今の時代は、きな臭く先行き不安の時代。立ち止まれない時代。伊丹十三の時代とはまた違う「アルデンテ」だと僕は思うのです。

さらに。

「時間」の何たるかを知らない人は「アルデンテ」を食べていても「ダサい」。

もう今は、こう言われる時代なのだと思う。

今日の「ほうれん草のジェノベーゼ・パスタ」は「アルデンテ」。僕好みの。

🍝🍷✨🍝🍷✨

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