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序
《西光寺の方に伺いました》
・・・・確かに、いつの頃からか、そういわれているものです。移動して欲しいと工事関係者がうちへ来ましたが、あの石は西光寺のものではなく長野市のもので私どもに権限はありません。石の前でお経を読むことはしてあげてもよいのですが、後のことは責任が持てませんよ、とお伝えしました・・・
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☕️【Sunday Life Coffee】
例の事柄、わかったよ。図参照として説明するのは、ここには向かないし、僕らしくない。いつものスタイルで答える。いつかあの時の「おひとりさま女子」に教えてあげて。
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📘『信州の口碑と傳説』
📘『信州の口碑と傳説』
杉村顕 初版(昭和八年1933)
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私は昭和五年の秋、東京から信州に移り住むやうになり、あの物凄いほど冴え冴えと澄徹した星空を初めて眺め、思はず襟を正し度いやうな一種崇高な氣持ちに捉らへられたのを記憶してゐる。その頃、私は話好きな宿の老婦から、よく長野市附近の興味ある傳説の多くを聞かされた。それは朝日山の大にう小にうの大蛇の話、吉田町の弘法銀杏の話、又、端午の節句の朝、葛山に翻へると云ふ赤旗の話などであつた
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「大入小入の墓」
長野市石堂町に、苅萱山寂照院西光寺と云ふ、浄土宗智恩院派の寺がある。加藤重氏寂照坊阿法師の開基と云はれ、苅萱上人、石堂丸、千里の前の墓があり、その傍らに、
畜轉善達 大蛇
朝日山 塔
得圓妙了 小蛇
と刻んだ奇妙な自然石の塔がある。土地の人はこれを、大入小入の墓と呼んでゐる。
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西光寺の少し南に「中兵衛」という樵(きこり)が住んでた。ある日、旭山でひと休みしようと倒れた木に腰掛けるとその大木がずるずると動いた。大木ではなく大きな蛇だったので中兵衛は斧を振り下ろした。中兵衛は死骸を持ち帰り、「古川」の橋のたもとで見せ物にした。大いにお金儲けをしたが、数日後に中兵衛は突然の病で亡くなった。続いて家族も次々と亡くなり、中兵衛の家は絶えた。それどころか、隣近所の人たちまで病に苦しみ、「旭山の大蛇の祟り」に違いないと、町の人たちは西光寺に大蛇の墓を建てた。大蛇の妻の小蛇も弔うため墓には戒名が二つ刻んだ。大蛇の位牌も残されている。小蛇はまだ旭山で生きているので、戒名には「朱」が入っている。
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(杉村氏の次女・杉村翠の談話参考)
杉村顕は三年余りの長野商業学校(現・長野県長野商業高等学校)での教師生活の間、下宿先「長野市南縣町・鴻靜館」の女将から昔話を聞いて、それを学校の生徒たちに話したが、皆に知らないと言われ、杉村顕は亡びようとしている彼等の郷土の伝説を取り纏めようと図書館で諸書を渉猟し書き留めた。
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想うこと
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杉村顕がどのような文書を参考にしたのかはわからない。ですが、この地では、はるか昔から善光寺参りのためのガイドブック的な書物を出版し続けているのです。杉村顕はそれらを見つけたのでしょう。そうして作られた。この「信州の口碑と傳説」を参考にしてまた新しい書物が現在まで発展していったのは間違いないと思います。そしてその書物に「それ」がプラスされていくのです。中兵衛の家は、現在の長野信用金庫石堂支店の場所にあった、(西光寺の年代は天保六年)天明六年(1786)に「中兵衛」が祟りを受けたことになった、江戸時代の文書では享保九年(1724)に「兵左衛門」が大蛇を殺したことになっている、大蛇が見せ物にされていた場所を示す「石」が古川の橋のたもとに残され、「大蛇の塚」となった・・・。
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僕が調べていた「それ」は石なのです。杉村顕は「石」には触れていない。蛇伝説とは関係ないのでは?僕は昔ここに川があった時代を忘れない為の「舟繋ぎ石」だと聞いた(読んだ)。関連した水害祈念碑かもしれない。調べました。色々な人に聞きました。西光寺の人にも。でもどうしても伝承の域を出ない。そうこうして行き詰まった時、ある人に「(京都にあるような)いけず石なのでは?」とハッとするようなことを教えてもらいました。なるほど。ツルツルの石で碑文もない。膝下程度の大きさ。道が狭く曲がり角、隅切りも不十分なところ。
・・・元を辿れば、水に洗われた「ただの石」・・・
石に想いを託し手を合わせる。石に願う。誰かが花を供えたら石が神様になる。「ただの石」が傳説を持つようになって、動かせなくなり現在に至っているのだ。
そっとしておこう。伝承を受け入れていよう。
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・・・旭山登山は気をつけて。小蛇は1786年から、まだ生きている。
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