お店:🍻【NAGANO BREWERY】/書物:📘『果物の木の在所』(津村信夫)

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お店:🍻【NAGANO BREWERY】

書物:📘『果物の木の在所』(津村信夫)

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五月の美しい晴れた日に、私は裾花川のほとりから、妻科といふ、静かなお屋敷町のあるへんを、一人で歩いてゐました。 歩きながら、ふと感じたのは、私のまはり近くまで漂つてくる花の匂ひでした…

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🍻【NAGANO BREWERY】

🍻【NAGANO BREWERY】

長野市大字長野往生地1341-3

🍺ビール

🍷ワイン

🌭ソーセージ

🥗サラダ

オープンの慌ただしさから少し時間をおいて。善光寺から往生寺へ登っていく道沿いにオープンしたブルワリーです。いまでは抜け道のようなこの道、よく知っています。鉄道ができた明治〜昭和初期までは、かつては恋人たちのデートコースでした。恋人を長野駅に出迎え、一緒に街中、善光寺を抜けて景色のいい往生寺まで。まだまだ「歩き」の時代のこと。みんな健脚だったのでしょうね。好きな詩人もこの道を歩いている。この道にブルワリーができて嬉しい。かつてのように恋人達が訪れるという空想。グラスを傾けて想いに耽ります。いいところです。店主さんから農園や醸造のことなど、メモが必要なくらい色々と教わりました。夢がありますね。もう少し落ち着いたら、またじっくりとお話を聞かせてくださいませ。…ひとつ驚いたことがありまして。僕はカウンターでお喋りをすることも多いのですが、(このInstagramのようにマニアックな知識から「カケラ」を引っ張り出したりします。)カウンター内の女性。僕が話の例えを「カケラ」にしたら、別の「カケラ」を例えにして、返してくれました。僕と同じ空気感…(何者っ?)。

また訪れますね。何かと楽しいことが起きそうな予感。

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📘『果物の木の在所』

📘『果物の木の在所』

津村信夫

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杏の木は、そのいかにも田舎らしい花の色から言つても、一番この地方と似合つてゐるやうに思はれます。…善光寺平に来て、この杏の話がでると、土地の老人達はきまつてかう言つて答へます。「善光寺様の鐘の音のきこえる処には、どこに行つても杏の木がありますよ」と。

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津村信夫は詩人として名を残していますが、気ままに書かれた随筆(エッセイ)があります。出身地は神戸でありながら長野をこよなく愛した作品を残しています。「戸隠の絵本」「善光寺平(絵・深沢紅子)」など。ただ、夭折でしたので数は多くありません。全集のなかで書かれた短い随筆のなかに、この善光寺平のことがよく書かれています。なかでもこの『果物の木の在所』は、善光寺の裏手側。恋人と往生寺まで歩いた情景を綴ったものだと思うのです。

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この林檎の木と言ふものは、平坦な土地ではうまくそだたないものなのです。大抵は山地の一日陽のあたるやうな処をえらんで植ゑられてゐます。善光寺の町のまはりの山々には、いくつもこの林檎の畑があるのです。林檎の花の咲くのは五月頃です。さうして五月と言へば、桃の花も、梨の花もさかりです。…「私のからだの健康は、きつと、子供の頃によくたべた林檎のおかげだと思ひます」 私はたいへん面白いことだと思つてきいてゐました。さうして、実際、その娘さんの顔を見ると、頬のあたりなど、まるであの紅玉のやうな美しい色をしてゐました。

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幸福といふものは、きつと…

『津村信夫』

(1909〜1944)

兵庫県神戸市生まれ。詩人。慶應義塾大学経済学部卒業。室生犀星に師事する。1934年に堀辰雄らとともに「四季」創刊に参加する。1935年、第一詩集「愛する神の歌」を刊行。予情的作風で、戦後、若者に愛読された。夏の避暑地、軽井沢を舞台に繰り広げられる少女たちとの甘くも切ない恋の物語、その美しい詩はひろく読まれ愛されている。

《雪尺余》

あの人は死んでゐる

あの人は生きてゐる

私は 遠い都会から来た

今宵 哀しい報知をきいて

(中略)

私は知つてゐる

遙かな紅のいろを知つてゐる

雪の日のあの頬は生きてゐる

(中略)

在天の知る限りの御名にかはり

今宵 雪つもる 白く積る

あの人は生きてゐる

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軽井沢千ヶ滝の旅館・観翠楼にて、26歳になる津村夫は学生生活最後の夏休みを迎えていた。ある日、見慣れぬ顔の少女が夕食の膳を運んできた。信夫は一目惚れをする。彼女の名前は小山昌子。生家は西長野の紙類を商う小売店であったが女学生三年生の秋に父が急死、一家は離散。昌子は臨時に手伝いとして観翠楼に雇われていたのだった。夏の終わりをもって信夫と昌子の恋は終わる。ところが9月に突然、信夫が昌子の長野の実家に現れ、昌子に意中を打ち明ける。裕福な家の出である信夫との違いに昌子は悩み断りの手紙を書くが、信夫はあきらめず毎日のように手紙を書き、毎週末には、信越線で八時間の長距離を通い続けた。翌年一月に昌子の義兄から信夫に手紙が届く。昌子が盲腸炎から腹膜炎を併発して重体、四日経っても意識が戻らない旨を知らされる。信夫は長野へ急行。このときの心情を綴ったのが《雪尺余》の一篇。「あの人は生きてゐる」の願いは天に通じた。信夫の必死な看病もあり昌子は退院する。1936年、室生犀星夫妻を媒酌人として津村信夫と小山昌子は結婚する。だが。1944年、信夫は不治の病で死去。享年三十六であった。

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想うこと

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一つの夢を見、もう一つの夢を見た。しかし、これは夢ではない。

この坂道とこの景色。津村信夫と小山昌子のことを考えていました。

【NAGANO BREWERY】さんにて。

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