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「1920年大正9年ブルジョア気取りと上流社会の窮屈な社交的雰囲気が芽生え始めた軽井沢を何とか逃れようと、数名の外国人宣教師が新しい避暑地を求めこの地にやってきたことから始まる。そして、軽井沢にはない「野尻湖」いう大きな湖を発見した彼らは故郷のカナダやアメリカを思い起こしながらこの地こそ我らが求めていた新しい避暑地だと決めたのである。」(野尻湖国際村物語・荒川久治著)
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☕️【The Lake Side Cafe】
☕️【The Lake Side Cafe】
長野県上水内郡信濃町野尻字海端263-2
🍛HAINANESE CHICKEN
(海南チキンライス)
🍋HOMEMADE LEMONADE
(自家製レモネード ソーダ割り)
不思議な出会いと運命があって、野尻湖通いはもう長い。夏場は、ほぼ毎週だったり、と忙しい。野尻湖の湖畔にこのようなお店ができて嬉しい。宿泊施設に併用されたカフェです。もちろん、宿泊者以外の方でも利用できます。天気も良かったのでテラス席にて。湖畔を眺めながらのんびりと。いつもは対岸にてウィンドサーフィンやウィングフォイル、SUPなどをやっています。子供が小さい頃はカヌーでいろいろ周りました。ここからだと湖の反対側、岬のかげの「東京YMCA」のビーチにこっそりと上陸したこともある。
…風に押されてさざ波ができる。湖面のきらめきがまぶしい。
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📘『野尻湖国際村物語』
📘『野尻湖国際村物語』
荒川久治 1990
…野尻仲町の大火の時、外人村の人たち数十名が夏の湖上をボートで漕ぎ寄せ、各自が持ってきたバケツで消火作業を応援してくれました。それで村の公会堂を火災から守ったんです。昭和三年八月二日のことでした。その頃から外人村と地域住民との親善交歓会が行われるようになって、…つぎつぎと西洋野菜の栽培がひろまって、外人村と地元住民との交流の輪がひろまり、深まっていったのです…
🎵「静かな湖畔の森の影から」
1958年発売のダークダックスの6曲入りEP『ピクニック・ソング』に「静かな湖畔の」として収録。当時は作詞者が判明しておらず、ジャケットには「作曲、作詩者ともに不明でアメリカ民謡だろうと言われているのにも疑問があります」と記されている。
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1932(昭和7)年のこと。湖畔の桐久保に「東京YMCA」が、青少年のためのキャンプ場を設けた。それから3年。35年の夏、一人の青年がリーダーとして野尻湖キャンプに加わる。慶応大学法学部を卒業し、紡績会社への就職を断って牧師の道を選んだ山北多喜彦である。彼はその春、やはりクリスチャンで6歳年下の小平恵美子と婚約したばかりだった。5週間のキャンプ中、東京の婚約者が恋しく、夜ごとランプの下で手紙を書き、送った。8月10日消印の一通にこうある。
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「郭公がしきりにないてゐます。こんな詞がうかんできました。”静かな湖畔の森の蔭から もうおきちゃいかがと郭公が呼ぶ。カッコー、カッコー、カッコ カッコ カッコ” これにいい曲をはめてみませう〉
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恵美子夫人との間に1男3女に恵まれた山北牧師は68年、60歳で亡くなった。それから14年後、遺品を整理していた夫人が、婚約当時の手紙を見つける。1982年8月11日付朝日新聞は「湖畔のカッコー 身元はっきり 作詞者は山北多喜彦さん」と大きく伝えた。今なお「作詞者不詳」の扱いがされがちなのは、遺族が「歌い継がれるだけで満足」とあえて著作権にこだわらなかったからである。
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想う
🚅✨🏄🏻♂️✨🌳
最寄りの「駅」というものは誰の心にも存在し続ける。
その地を離れた者にとっては、とても懐かしくて、悲しい場所。
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僕が初めて新幹線に乗ったのは…赤ん坊だったから記憶にカウントはされていない。二度目の歩いて降り立ったことは覚えている。これは両親の里帰りと思われる。そして小学校と中学校の修学旅行で乗り降りをした。…そのあとは「旅立ち」の時でした。…あと覚えていること…山陽新幹線「新神戸駅」のホームドアの開閉時のメロディは「静かな湖畔」でした。(上り2018年・下り2019年廃止)
思えば遠くに来たものだ。僕の、不思議な出会いと運命も、まだまだ続く。
…湖面に秋風が立つ。
「The Lake Side Cafe」さんにて。
🚅✨🏄🏻♂️✨🌳
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