Cafe風和/ささめごと

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Cafe風和

カフェ風和
カフェ風和 · 〒380-0862 長野県長野市長野桜枝町
建造物

Cafe風和

長野市長野桜枝町812

Cafe風和さんへ。ランチの時間に伺い、煮込みハンバーグとコーヒーのセット。

「善光寺」から徒歩圏内にあるお店です。

「善光寺」・・・住職は大勧進貫主(天台宗)・大本願上人(浄土宗)。創建依頼約1400年にわたる阿弥陀如来との結縁の場、民衆の心の拠り所となるお寺。

Cafe風和さんは善光寺のすぐ近くなのですが、主要道路から脇道に入る住宅地の中の僅かな隙間にあります。駐車場は二台用意されていますが、迷い込まないように下調べをしてから向かわれると良いかも知れません。Cafe風和さんのこの建物の以前の姿は、「書道教室」で、その看板が玄関に残っています。オーナーさんの祖父が開いていたそうです。店内には「和」の空気と、年月を感じる「洋」の調度品があり、JAZZピアノのBGMが流れています。いただいたハンバーグランチにも和洋を窺い知ることができます。味覚も嗅覚も。また、器からも両方の世界を感じます。異文化(洋)を受け入れて混ざり合う。これらは「書道」の影響なのでしょうか。また、和洋が混在するこの空間は、古くもありますが「昭和」の面影を残しているのではありません。目前の流行や、歴史を守る気負い、(古いものには古いものの良さが、という言葉をよく聞くけど。)・・・などを追い求めることもなく、あるがままに「ゆったり」と「しなやかに」時が流れていたのだと思います。今現在はオーナーさんのワンオペでCafeになり、素敵な空間が受け継がれています。座りごごちの良いソファーで、美味しいものをいただきながら、素直な気持ちで考えてみました。

そろそろ、季節の移り変わりを感じ始める頃合いです。宵の涼しさや、秋の虫の声。ついつい侘しさに心を動かされる。ですが、僕は「書」を習わなかった。「飛花落葉」というような自然現象にも無常を観る心が、「道」を知らない未熟な僕に備わっているだろうか。

ささめごと

「ささめごと」

心敬 1406(応永13年)〜1475(文明7年)

(室町時代中期の天台宗の僧。歌人・連歌師・仏道者。)

・・・世の中のはかなき睦物語の折節には、踏み知らぬ和歌の浦わの暗き道まで、互ひに忍びあへず、うち出でぬる言の葉の末、うつつ心なき事に侍れども、これは伏屋が下のささめごとなれば、壁の耳もおぼつかなからず。・・・

・・・余々の無常とて、物ごとにふれて忘れざるは、菩薩大悟の位なり・・・

人間は一日一夜のうちに八億に及ぶ思いを思う。歌・連歌についての思いをいい加減に扱うのは罪深いことである。どのような道の修行においても、日常の稽古と、自己をどのように表現するかという問題とは異なる。どれほど仏教経典や歌の書物を見ても、その間の微妙な問題点を自分で会得することができなければ、その道の奥義には達することは出来ない。西行上人も、歌道の修行は、そのまま仏道修行における悟りの途への行程と同じなのだと述べている。歌道と仏道、この二つは見かけはニであるが、実はニではない。歌道と仏道は真理を求める点においては一である。

想うこと

・・・言わぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。境に入りはてたる人の句は、この風情のみなるべし。

仏道と歌道は相容れないのだろうか。歌道に拘らず、この世には色々な「道」がある。それら、どんな「道」も入道の妨げになるのだろうか。

心敬の晩年時代は応仁の乱(1467〜1477)で都も荒れ果てていました。

「民もつかれ、都もおとろへ果てゞ、よろづの道万が一つも残らず」

人の世は常に「つらい」ものなのです。余々の無常、物事に触れて「道」を求めて行くことは、仏道の修行と同じ。どんな「道」も生きる上で役に立つのです。

食後のコーヒーが美味しい。気持ちが落ち着きます。

まだまだ「道」を知らない僕だけど、コーヒーカップの手触りを確かめながら、想いに耽ってみました。今日は「Cafe風和」さんで、

「風情(風)」と「和み(和)」を身に受けて来たのでした。一歩でも前進したかな。また伺います。

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