Banco Ramo
Banco Ramo 026-219-6439街中で用事。その足で。
Banco Ramo
長野市南石堂町1261-1 1F 東
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身はうきくさ(憂・浮草)を誘ふ水 身をうき草を誘ふ水
なきこそ悲しかりけれ
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いつもお世話になっております。フラリと訪れて、スッと帰る、カウンターひとり呑みのスタイル。午後から休みをとっていたのですが、結局夕方になってしまいました。夕暮れ時にいただくワインです。チーズとポテトサラダ(新バージョン)。味覚からも季節を感じることができて、梅雨入り前の緑の艶やかさを思う。涼しい風が心地良い。ご馳走様です。
「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」〈ストリンドベリ〉(スウェーデンの作家)の言葉。作家山本周五郎が人生の指針にした名言です。本質的にこの地球上の全ての生物は、命のリレーをするために歩き続けなければならない。つらい巡礼なのだ、と割り切れば、心労辛苦も軽く感じる事ができる。
巡礼には、出会いがある。時として、不思議な出会いと経験をしてみたい。それは、ふとした道端にもあるかもしれない。
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卒塔婆小町
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「卒塔婆小町」(能・四番目物)
観阿弥・世阿弥
シテ・小野小町
ワキ・高野山僧
ワキツレ・従僧
高野山の旅僧二人。道端の朽ち木に腰を掛ける老女と出会う。よく見れば朽ち木ではない。「町卒塔婆」という弘法大師ゆかりの高野山への里程を示す道標が朽ち倒れたもの。僧は教化の為、言葉を掛けるが、老女の反論にたじたじとなる。この老女こそ才色兼備の名歌人「小野小町」のなれの果て。卒塔婆問答の最中、突如、かつて彼女へ恋慕していた深草少将の怨霊が小町に取り憑く。深草少将は小町に「百夜欠かさず通って志を見せたならば思いを叶えよう」と言われ、九十九夜目に死んだ「百夜通い」の逸話で名高い人物。小町が百歳の老女になるまで生き恥を曝すのはこの報い。
小町衰老伝説の基本構造は因果応報。小町は歌才と美貌を誇ったがために老残を曝し、この世で地獄の苦を受ける。だからこそ、老小町には女性美の残り香がなければならない。この美しさは、当然、表面のものではない。生の真実あってこその「美」。老女物の能が芸道最奥の頂点に置かれた意義はそこにある。これぞ「役者を選ぶ能」。
狂気の去った小町。静かに立ち上がり、悟りの道に入らんと合掌して終曲となる。
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これにつけても後の世を 願ふぞまことなりける
砂(イサゴ)を塔と重ねて 黄金の膚(ハダエ)こまやかに
花を仏に手向けつつ 悟りの道に入らうよ 悟りの道に入らうよ
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